自閉症スペクトラムだって共感性は高い!低いなんて誰が決めた?

こんにちは
ずぼら母ちゃんこと渡辺さつきです。

今日は共感性とは何かについてお話したいと思います。

自閉症スペクトラムのある人は共感性が低いなんて嘘!

自閉症スペクトラムのある人は、共感性が低い。
よくそんなことを聞きます。

実際、自閉症スペクトラムの症状の一つが、社会的コミュニケーションや社会的相互作用に困難さを抱えているということなので、共感性の低さが目立つのも仕方のない事かもしれません。

でも、現在中学1年生の柚樹を見ていると、共感性が低いということ自体が本当かな?と疑問に思ってしまいます。

確かに、私の理屈と柚樹の理屈が全然合わずに、話が平行線になってしまう事もしばしばあり、よーく話を聞いてみると
ええっ?!そこにこだわっていたの??
と、思ってもみなかった論理展開をしてくることがあります。
だから、私が柚樹に共感できないという事はあるのですが、でも、普通の場面での共感性はしっかり発達していると思うのです。

例えば、こんな感じです。

葉月(1番下の娘)「今日最低!!先生、めちゃくちゃたくさん宿題出すんだよ!」
柚樹「どのくらい出されたの?」
葉月「算数のまとめを2ページと漢字スキル1ページ!おまけに理科のテスト勉強しろだって!」
柚樹「そりゃあ、多いね。先生頭おかしくなっちゃったんじゃないの?奥さんとケンカでもしたのかな?」
葉月「まったく、ひどいったらないよね!!」
柚樹「まあ、まあ。やり始めないと終わらないから、とりあえず、始めろや。理科のテスト勉強は、様子でできるとこだけやれば?」
葉月「…そうする。」
柚樹「がんばれ~」

このやりとりをそばで聞いていて、特に不自然さを感じません。
お互いに同じフィールドに立って、共感し合いながらことばのキャッチボールをしていると思う訳です。

また、家での決まりごとを守らなかった葉月に対して私やイライラしていたり、不機嫌になっていたりすると、私が何かを口に出して言っているわけでもないのに、そーっと寄ってきて抱きついてきたりなどの行動をとるのは、小さい頃から決まって柚樹でした。
柚樹は空気を読んで、何も言わずに(母ちゃ~ん。押さえて、押さえて!)というメッセージを体で表現してくれるわけです。
そうなると私も怒る気もなくなって、「分かった、分かった。怒らないから安心して」と言います。
それを聞いて安心した柚樹は今までやっていた事にもどるという事が、日常茶飯事です。

もちろん、柚樹はアスペルガーだと診断されていますから、れっきとした(?)自閉症スペクトラムです。

だから、「自閉症スペクトラムの方=共感性が低い」とするのには疑問が残るのです。

(もっとも、共感性が低いと言っているのは、定型発達の人たち側の意見なので、自閉症スペクトラムのある人側から見たら、定型発達の人は共感性が低いという事になるのではないかという気もするのですが…。)

共感するという事は考え方や思いが一致しているという事

共感性とはなんでしょうか。
それは、自分以外の人間と喜怒哀楽の感情を共有することです。
自分以外の人と喜怒哀楽を共有することと簡単に書きましたが、これは、実は難しい事ですよね。

私は先程柚樹に共感できないことがあると書きましたが、日常生活の中で、自閉症スペクトラムのない人に対しても、共感できないことがあります。
考え方の違いというか性格の違いというか。とにかく(はぁ?信じられない!)って思う人もいるわけです。

となると、自閉症スペクトラムの人たちが、自閉症スペクトラムのない人たちと共感し合えないというのは、お互いの考え方や思いが一致していない部分があるために起きているのではないかと考えました。
言いかえれば、柚樹と家族が共感しあえている部分が多いのは、考え方や思いが似ているからではないかと。

共感し合えている状態というのは、お互いに心地よいものです。
そうした心地よい状態を積み重ねることが、自閉症スペクトラムのある人にも無い人にも、よい結果をもたらすのではないかと思いました。

自閉症スペクトラムの子どもたちが、共感することが苦手で、その心地よさになかなか気づけないとしたら、自閉症スペクトラムのない私たちが自閉症スペクトラムのある子どもたちに共感して、その心地よさを十分に味あわせればいい、という事です。

今までの関わりの中で、柚樹の共感性が伸びてきたのだとしたら、それは一つの支援の形として有効なのかもしれないですよね。

ということで、今回長くなってしまったので、次回はこれまでの柚樹への接し方で、共感性を育てるのによかったのではないかと思う事を書きたいと思います。

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